〈棄想天蓋〉:文芸とポップカルチャーを中心に

トマトです。学位は品種(文学)です。無名でも有名でもないちょうどよい塩梅の文芸作品をとりあげて雑感を綴ることが多いです。レコードが好きです。

未完であること:〈青春ガールズムービー〉としての『幕が上がる』

二年前に『ももクロの美学』を著した安西信一先生がご存命であったら、いま現在のももいろクローバーZについて何を考え、何を書くのだろうかと、ふとおもいました。

その本のなかでももクロと比較されて中心的に論じられた〈青春ガールズムービー〉にももクロ自身が大々的に主演をするという展開。

同じく重要なトピックとして扱われたあーりんの「秋桜」をもしかしたら上回るかもしれない3月5日の『ももいろフォーク村』での出来事。

どちらも『ももクロの美学』の延長線上にあるものなので、これらについてのコメント、これらを踏まえた展望についてのコメントを読んでみたかったです。

 

それにしても『幕が上がる』という作品は、物語内容のみならず構成的にも〈青春ガールズムービー〉の王道を踏襲しているようにおもいます。

〈青春ガールズムービー〉とは、宇野常寛ゼロ年代の想像力』を下敷きに、安西先生が『フラガール』や『書道ガールズ』などのよく似た作例の映画群につけた総称のことです(起源のようなものとして考えられているのは『ウォーターボーイズ』(2001)です)。

 

そしてそれらの映画は、単に「少女らが部活動などに励む青春成長物語」というだけではなく、細部の物語の展開の仕方にもいくつもの共通点があるとされています。

それはたとえば、次のようなものです。

 

・指導者からのプレゼント

・中心人物の脱退

・周囲のおとな達の成長

クライマックスとなる晴れ舞台での身体パフォーマンス

・目標(全国優勝など)達成直前での終劇、など

 

ももクロの美学』ではもちろんこうした要素がももクロに引き寄せられて、ももクロの話題と関連させて語られています(中心人物の脱退、なんて言わずもがなです)。

そもそもが〈青春ガールズムービー〉的であると指摘されるももクロが主演した〈青春ガールズムービー〉なのだから、『幕が上がる』が王道を行くのはとても自然なことでしょう。

少女らの成長過程を描くというお約束が、本広監督自身も述べているように、役者としてのももクロの成長過程を同時にみせることで意図的に強化されている点も大事です(ももクロというグループ自体の成長過程を視聴者に猛烈に印象づける、『はじめてのももクロ』の公開という戦略も大事です)。

 

上記のうち〈指導者からのプレゼント〉に相当する要素が劇中にあったかはちょっとおもいつかないのですが(吉岡先生に連れて行ってもらった東京のビル街の夜景はそれに近いかもしれません。それに感動し、決意を新たにすることとなったという意味で)、その他のものは『幕が上がる』とも無関係ではありません。

〈中心人物の脱退〉という典型的受難は、吉岡先生の退職と上京が相当しています。そしてこのことは、少女らに感化されての〈周囲のおとな達の成長〉という要素も同時に兼ねています。

 

そして次の項目がこの作品を考えるうえでもっとも重要なようにおもわれます。

 

〈青春ガールズムービー〉のほとんどが〈晴れ舞台でのパフォーマンス〉をクライマックスシーンとしているにもかかわらず、『幕が上がる』はそのパフォーマンスの直前で終幕してしまいます。

別言すれば、舞台の幕が上がるとともに映画の幕が下りてしまいます。

そこまでずっと王道的な〈青春ガールズムービー〉でありながら、そのラストで王道から大きく逸脱してしまうのです。

 

また、この点をより一層興味深いものとしているのは、それが映画独自の脚本であって、原作小説とも異なっているという事実です。

平田オリザの原作ではクライマックスシーンとして県大会の様子が丁寧に描かれています(そこには脱退した指導者、吉岡先生も見守りに訪れます)。

さらにはその先の彼女らの後日談までもが語られています。

 

おもいのほかに長くなってしまったので一旦ここまでにして、つづきは次のエントリーに記します。

 

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