高橋さおりへ吉岡美佐子から / 沢里武治へ宮澤賢治から
おまへのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
(中略)
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
(中略)
みんなが町で暮らしたり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ
*
『幕が上がる』には、「銀河鉄道の夜」とともに、宮澤賢治の詩「告別」が引用されています。
「春と修羅」や「永訣の朝」などに較べると知名度は確実に低いので、この映画を通じてはじめて知ったという方も多いのではないでしょうか。
これは農学校を辞す決意をした賢治が別れを告げることとなる生徒をおもいながら綴った詩です。それが劇中に引用されるのは、当然ながら、演劇部員を残して一人で去っていく吉岡先生が賢治になぞらえられているからです。
映画ではさらっと、原作小説では重きを置いて、この詩は暗示的な意味をもつものとして扱われます。
残念ながらどちらにおいても吉岡先生の真意は「さおり」らに届くことはなく、あっさりと裏切った酷い先生だと理解されてしまいます。
しかしながらこの詩の背景を知り、あらためて読み返すことによって、宮澤賢治の文脈にも詳しい平田オリザがなぜこれを作品の重要な場面に用いたのかが浮かび上がってくるようにおもいます。
*
吉岡先生の手紙が「高橋さおり」という個人に宛てられたように、詩「告別」で語りかけられる「おまへ」もある特定の生徒であったと推定されています。
それは「沢里武治」(当時は旧姓の高橋)という、賢治が大変に目をかけていた一年生です。
上に引用した冒頭にもあるように、賢治は沢里に、本人も気づいていないであろう音楽の才能を認めました。そして楽譜の読み方を個人指導し、オルガンやヴァイオリン、セロなどを習得させようとしました。
農学校時代の賢治の教え子として知られている人物はたくさんいますが、このような関わり方をしたのは後にも先にも沢里だけです。教え子というよりは愛する「弟子」であったことがうかがえます。
辞職に先立ち、賢治は沢里にヴァイオリンや自身の写真などを贈ったといいます。
さて、詩「告別」のその後についてです。
一旦は別れを告げることとなったものの、賢治が沢里を気にかけ、沢里が賢治を慕った結果、二人の交流はその後もつづくこととなりました。
『新校本全集』には賢治が沢里に宛てた手紙が17通収録されていますが(最後の手紙は賢治の死のひと月前の日付をもちます)、それらに目を通すと、その師弟関係は「告別」を経てもすこしも揺らがなかったということがわかります。
それらのなかで賢治は、仕事の合間にオルガンをつづけることができているかを尋ね、オルガン演奏法の本を贈る旨を伝え、病気がよくなればセロでも合奏したいと綴っています(肺を患っていた賢治は、万が一にも沢里に結核が伝染せぬように消毒をしたうえで本を送りました)。
また、近くまで寄った際には顔をみせるようにと頻りに訴え、わるい風邪が流行っているから「わかもと」という薬を呑みなさいと忠告するなどもしています。
沢里が賢治との憶い出を回想した文章は多くないのですが、なかに一つ、全集の年譜篇にも採られている興味深いエピソードがあります。
あるとき沢里は賢治から、のちに自身の代表作の一つとなる童話「風野〔の〕又三郎」の劇中歌の作曲を依頼されたといいます(「どっどど どどうど どどうど どどう」の歌です)。
期待の分だけ怖れながらも夢中で取り組んだ沢里ですが、結局はそれを完成させることができませんでした。お詫びの報告を受けて大変にがっかりした賢治は、もはや他の者に依頼をすることはなく、曲をつけるという構想自体を諦めたとのことです。
これについては沢里本人以外の証言がないために真偽のほどは定かではありません。
ただ付言しておくと、それ以前に賢治は沢里が作曲をしたものに自分が作詞をしたいという旨を手紙で述べていました。「風野〔の〕又三郎」の舞台である山村の原イメージが沢里の住む上郷村であったこともまた、賢治の手紙から知ることができます。
こうしたことを踏まえると沢里の回想は信の置けるものであるだろうとおもわれます。そして、沢里であればそれだけの期待をかけられていたとしてもおかしくはないようにおもわれます。
以上、その後の交流を辿ることで、宮澤賢治が沢里武治という「弟子」をいかに大切におもっていたかを知ることができます。だからこそ辞職を決めた当時の賢治にとって沢里を置いて去ることがいかに心残りであったかが推し量れます。
愛弟子と別れることになっても選んだ道を自分は自分で一人で歩まなければならない、という断固たる決意が賢治に一篇の詩を書かせました。そしてそれに「告別」という題をつけさせました。
作中で描写されることのなかった「吉岡美佐子」の決意が仮託された詩「告別」とは、このような背景と展開をもつものです。
*
結びにかえて。
この詩には「一九二五、一〇、二五」という年月日が付されています。
前述のように、このとき沢里武治はまだ一年生でした。すなわち、賢治が沢里と出会い、「告別」に至るまでの期間は、わずかに半年ほどしかなかったということになります。
互いに惹かれ惹きつけ合う関係が築かれるのに、半年という期間はけっして短いものではないのでしょう。
吉岡先生からの告別の手紙が「さおり」らに届けられるのもまた「十月第四週」のことです。
これは明らかに偶然の符合ではありません。
農学校卒業後の沢里武治は、まるで賢治の背中を追いかけるかのように小学校教諭となりました。
高橋さおりはどのような道を歩むこととなるのでしょうか。
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