吉岡美佐子に寄せる
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先日の詩「告別」についての記事にすこしだけ補足をしようとおもいます。
宮澤賢治にはもう一つ、農学校の教え子を念頭に置いて書かれた詩があります。「生徒諸君に寄せる」という断片的なメモのようなものです。
この四ヶ年が
わたくしにどんなに楽しかったか
わたくしは毎日を
鳥のやうに教室でうたってくらした
誓って云ふが
わたくしはこの仕事で
疲れをおぼえたことはない
(中略)
新たな詩人よ
嵐から雲から光から
新たな透明なエネルギーを得て
人と地球にとるべき形を暗示せよ
新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ
諸君この颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか
(後略)
詩「告別」と較べるとこちらの方がむしろ有名かもしれません。というのもここに書かれた内容が、宮澤賢治を考えるうえでとっても重要視されている「農民芸術概論綱要」という文章と共通点をもち、補完関係にあると考えることができるためです。
(ちなみに宮崎吾朗監督の映画『コクリコ坂から』では劇中歌の原案として参照されてもいます。)
同じく別れる(別れた)生徒の未来に想いを馳せた詩でありながら、『幕が上がる』では「生徒諸君に寄せる」ではなく「告別」が引用されました。それは前者が未完成の断片であるというのみではなく、後者でなければ意味をなさなかったためでしょう。
二つを並べたときにもっとも際立つ差異は「告別」のなかの《おまへはおれの弟子なのだ》というフレーズであるようにおもわれます。
「告別」の引用が必然であり、他のどのような詩とも交換不可能であるのは、やはりそれがただの別れの詩ではなくて「弟子」への「告別」の詩であるためです。平田オリザはこれ以上ないかたちで「吉岡美佐子」の心情を暗示したようにおもいます。
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『幕が上がる』の物語は「高橋さおり」の視点で語られていきます。
したがって登場人物も(とくに原作小説では)「さおり」というフィルターを通して語られていきます。「さおり」はそうおもう、「さおり」にとってはそうである、という主観的な印象で語られていきます。
「さおり」には立ち入ることができず、作品の外部にいる平田オリザもほとんど描くことがなかったものの一つが吉岡先生の心情でした。
美人でかっこよくてミステリアスな吉岡先生は、スタイルや服装などの外面が描写されることはあっても、その内面は描写されることなく〈空所〉としてありつづけました。
そんな吉岡先生が学校を辞すこととなったときに手紙の終わりで引用したのが「告別」です。
平田オリザは吉岡先生自身に多くを語らせるのではなく、この詩を一つだけもってきました。
受け手の「さおり」からすると、手紙にそれを引用されたところで情報が少なすぎて意図を理解しようがありません。読者(観客)もほぼ同様で、作中に挿入されたこの詩の唐突さに若干の戸惑いを覚えてしまうようにおもわれます。
「さおり」にすら伝わっていない以上、読者(観客)も「告別」についてはスルーしてしまって問題はなく、むしろスルーしてしまった方が困惑し失望し怒りを覚える「さおり」(や「ユッコ」や「ガルル」)に感情移入しやすいかもしれません。
しかしながらこの詩の背景を視野に入れてそれが意味するものを推し量ることで、「吉岡美佐子」の側に立って彼女に感情移入をするということも可能となるのではないでしょうか。
わたしは『幕が上がる』という箱前提の吉岡先生推しなので、こうした視点からもう一度『幕が上がる』を観たくなる、そして原作も読みたくなるという方がいらっしゃれば嬉しいなと、そうおもいました。
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映画の結末部分では「さおり」が吉岡先生に宛てて手紙を書きます。それは送る予定のない手紙であり、それゆえに吉岡先生にはけっして届かない手紙です。
吉岡美佐子も高橋さおりも、相手に届かないことは知っていたうえで、それでも手紙を書きました。
人間は一人だけれどもみんな一緒であり、みんな一緒だけれども人間は一人でしかない。
手紙を書くけれども〈想い〉は伝わることがなく、伝わることがないけれども〈想い〉を手紙に書く。
映画の独自の脚本では、演出的な意味ではなく主題的な意味で、「さおり」の手紙の場面はとくに印象に残りました。
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