〈棄想天蓋〉:文芸とポップカルチャーを中心に

トマトです。学位は品種(文学)です。無名でも有名でもないちょうどよい塩梅の文芸作品をとりあげて雑感を綴ることが多いです。レコードが好きです。

ポップカルチャーとサブカルチャーのあわいに

 

サブカルチャーという言葉を使うとき、どうしても違和感を感じてしまう人は多いのではないだろうか。サブというからにはメインカルチャーがあるはずだ。でもそんなものどこにあるのか。確固として揺るがないメインカルチャーなんて、かつてはあったのかもしれないが、少なくとも今の日本にはどこにも見あたらない。だったらサブカルチャーなんてものはないのではないか。

 

このblogでは、手の空いた週末などに、副題の通り文芸とポップカルチャーについておもいついたことを書いていきたいと考えています。そこでまず〈ポップカルチャー〉そのものを話題としてみることにしました。

 

サブカルチャー〉と〈ポップカルチャー〉の二つはすこし前まであまり意識的に使い分けがなされず混用されていました。現在でもしばしばアニメやマンガ、ライトノベルなどの総体を指して〈サブカルチャー〉と呼ぶ場合がありますが、この2010年代においてそれは適切ではないようにおもわれます。

 

そもそも「サブカルチャー」ということばは読んで字のごとく「サブ」の「カルチャー」であって、下位の文化であり従属する文化の意となります。「メイン」ありきの「サブ」であり、「カウンターカルチャー」の類語として流通してきたものです。

若年層のみならず中高年まで、国内のみならず世界まで拡がりつづけているアニメなどは紛うことなき現代日本の「メイン」のカルチャーであり、それを「サブ」と言ってしまえる根拠はもはやありません。

このことは「クールジャパン」を自称して経産省が戦略的にこれらを利用しようとしている点からも明らかです。現状において「アニメ」は「和食」とならぶ日本文化の柱とされつつあります。

 

したがって、繰り返しとなりますが、現在においてアニメやマンガ、ライトノベルなどの表象文化は大衆的な人気をもつ〈ポップカルチャー〉の位置にあり、それらを〈サブカルチャー〉として括るのは時勢にそぐいません。*1

 

とはいえ、こうした意識というのもくどくどしく言うまでもなく相当に浸透しており、現実には年一年と混用される場面を目にすることは少なくなっています。「ポップカルチャー」という語自体が浸透したということも実感できるので、これからますます「ポップ」なものとして受容されていくことでしょう。

 

そこで思い出されるのはアニメが〈サブカルチャー〉であった頃のことです。

 

90年代の前半までわたしは角川スニーカー文庫電撃文庫などの読者でした。「あかほりさとる」や「中村うさぎ」といった名前を懐かしさをもって思い出します(当時は著者がどのような人物かまでは気にしていませんでした)。それらいまで言う「ライトノベル」を好んでいたために、親和性の高いOVAなども、友人の兄がその道に通じていたこともあって、とくに抵抗はなくちょこちょこと視聴していました。

 

1996年のある日のことです。

気持ちが悪いほどに興奮をした友人がわたしに向かってエヴァンゲリオンハスゴインダ!と訴えてきたのです。聞くと前日にはじめてエヴァをみたとのことで、そのカッコよさと新しさを熱弁してくるのです。

当然のように彼とともに『新世紀エヴァンゲリオン』なるアニメを観る運びとなったわけですが、わたしはその作品に強い違和感と拒絶感を覚えました。

その後、エヴァを機にアニメの深みにはまった友人宅に遊びに行く毎に、貼られるポスターは増え、積まれる雑誌は高くなり、彼自身はアスカガー、ライムガー、サクラガーなどしか発しなくなっていきました。これはいかんぞ、とおもいました。気持ちが悪いぞ、とおもいました。

エヴァへの違和感と変わりゆく友人の姿からはじめてオタクフォビア(同族嫌悪)の念が芽生え、わたしはアニメやラノベに背を向けることとなりました。

 

このようにわたし個人はアニメから後退することとなったわけですが、周知のように世間にアニメやオタクへの評価を緩和させることとなる転機も同じエヴァだったわけです。

メルクマールとなるのは劇場版『Air / まごころを、君に』が公開された1997年でしょうか。当時の関連書籍の出版ブーム、ワイドショーなどでの報道のされ方には、傍から眺めていても目を見張るものがありました。これをもって明らかに世間のアニメとオタクをみる目が変わったと感じました。

(ただし、それは必ずしも好意的なものではなく、あくまでも身近にいる他者としてのオタクへ向けられたまなざしであったとおもいます。だからこそ2000年前後から学際的なオタク論が開かれていくわけで、やはりいまだ偏見と嫌悪が強かったことは間違いないでしょう。

また、「オタク」と呼ばれる人々にしても、旧劇エヴァの終り頃に映し出されるディープな観客たちと新劇ヱヴァの劇場に来るポップな観客たちには決定的な断絶があるようにおもわれます。東浩紀らによりしばしば指摘されてきたように「おたく」と「オタク」の違いだと言うこともできるでしょう。)

 

このような状況下の1997年に『オルタカルチャー 日本版』というムックが現れます。

 

『オルタカルチャー』はメディアワークスが発行した、音楽・映画・文芸・社会現象・性風俗・ファッション・ネットなどの幅広いジャンルから600余りのキーワードを設けたサブカル/アングラ情報のレファレンスブックです。

アイコラ」から「笑っていいとも!」までのキーワードが50音順に事典のスタイルで並べられており、主観的に選択された項目が主観的に執筆されていく点が大きな特徴です。*2

そしてここにはもちろん、アニメやマンガ、ゲームなどの情報がエヴァをはじめとする多数の具体的な作品名とともに溢れており、大きな存在感を示しています。

 

さて、話題を書名に移します。

「日本版」とあるように、この本は1995年にアメリカで出版された Alt. Culture: An A-To-Z Guide to the '90S-Underground, Online, and Over-The-Counter に倣ってつくられたものです。

そのため書名もそのまま借りてきたものなのですが、ただの真似事ではなく、実感に基づく共感が企画の根幹にあったという点が重要です。

 

この記事のはじめに置いた《サブカルチャーという言葉を使うとき》云々という文章は『オルタカルチャー』の巻頭言から引いたものです。1997年の日本では、先端的な意識をもつ人々の間ではすでに「サブカルチャー」という語の耐用年数が切れていたということがわかります。

 

「オルタカルチャー」ということばは「オルタナティブ」+「カルチャー」の造語です。書中ではそれが「非本流(傍流)文化」と訳されています。

この時代には本流の文化などもはや存在せず細くて小さな傍流的/島宇宙的な文化があるだけではないか、メインがないのだからサブなんて存在しない、だから「オルタカルチャー」と呼び換えてしまおう、そしてバラバラになっている島宇宙をジャンルを超えてリンクしてしまおう、という意図がそこにはあります。

 

このような〈オルタカルチャー〉の概念は、すでに本家のアメリカ西海岸とはまったくの別物ながら、「1995年」以後の日本に実感をもって共有されうるものであったのだろうとおもいます(実際にこの時期に広まって多用されたのは結局のところ「サブカル」でしたが)。

アニメを中心とした日本の表象文化の位置付け、受容のされ方が変わるかもしれないとおもわせた『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)や『GHOST IN THE SHEL / 攻殻機動隊』(1995)は〈オルタカルチャー〉の典型だったのかもしれません。

 

いまとなってはamazonで1円で買えるムックであり、話題にあげる必要すらないであろうムックですが、〈ポップカルチャー〉としてのアニメを考える際にはそれなりの史料的な意味を見出すことももしかすると可能であるのかもしれないのではないだろうかと、ちょっとだけおもう次第です。

 

なんにせよ、サブカルチャーであったアニメはオルタカルチャーの一つとなり、その段階を超えてポップカルチャーにまで成長してしまいました。大衆化された結果なのだろうとはおもうのですが、いまとなってはわたしのオタクフォビアも解消され、ゼロ年代以降のアニメもちょこちょこと視聴しています。

そうしたものを観て何かおもいつくことでもあれば、ごくごくライトでポップに書いていきたいなあと考えています。

 

けれどもやはり、ももいろクローバーZの話題がメインとなりそうな気がしています。

 

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Amazon.co.jp: オルタカルチャー―日本版 (オルタブックス (000)): 本

 

*1:もちろん、ジャンル全体のなかでのサブジャンル、メジャーな作品に対するマイナーな作品、これらをサブカルチャーとすることは適切でしょう。

*2:何でもありなカオスな状態なのですが、何でもありすぎて裁判を起こされ現在ではむしろそちらの文脈によって記憶されています。