〈棄想天蓋〉:文芸とポップカルチャーを中心に

トマトです。学位は品種(文学)です。無名でも有名でもないちょうどよい塩梅の文芸作品をとりあげて雑感を綴ることが多いです。レコードが好きです。

境界としての〈へり〉:天沢退二郎『光車よ、まわれ!』(1973)

昨年であったか一昨年であったか、すこし前のことになりますが『電脳コイル』を視聴しました。

2007年にNHKで放送され、日本SF大賞を取ったことでも話題となったアニメです。評判のよさは知りつつもタイミングを逃してしまったことと絵柄の印象で未見でいました。しかしながら観てびっくり、とてもおもしろかったです。イヌを飼っているので感情移入してしまう展開もありました。

 

このアニメを視聴してすぐにおもったことが二つありました。一つがリアルタイムで追っかけておけばよかったぞということ、一つが天沢退二郎『光車よ、まわれ!』っぽいぞということでした。

ネットで検索したところ制作陣もこの作品からの影響を公言しているらしく、そうした指摘はすでにたくさんあるようです。

 

『光車よ、まわれ!』はわたしのとても好きなジュブナイルです。

作者の天沢退二郎は50年代にデビューした詩人です。大岡信や国民詩人とも言い得る谷川俊太郎のすこし後、入沢康夫渡辺武信と同じ時期、吉増剛造のすこし前に詩壇に登場しました。

そして、上に挙げた詩人らと同様に、宮澤賢治の影響をとても強く受けた詩人です。

詩人として影響を受けたのみならず天沢は宮澤賢治の研究者でもあります。

ユリイカ』誌上で行われた入沢康夫との「徹底討議『銀河鉄道の夜』とは何か」は、のちに単行本化もされ、現在につづく宮澤賢治研究の出発点となりました。

詩人/宮澤賢治研究者である天沢退二郎の多くはない児童文学作品の一つが『光車よ、まわれ!』です。

 

この物語では視点人物の一郎が小学生グループのリーダーである龍子らとともに《スイマジン》率いる《水の悪魔》と戦います。

悪魔は水面を境とする《さかさまの世界》からやってくるのですが、この作品のとってもユニークなところは仲間(や名もなき小学生)がそれにあっさりと殺されてしまうところでしょう。

こども達の冒険は予定調和的な児童文学の世界でのそれではなく、常に死の危険をはらむものなのです。

このような残酷な世界を設定した前提には宮澤賢治の童話「ひかりの素足」や「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」、あるいは「水仙月の四日」などの読書体験があるようにおもわれます。宮澤賢治の童話も死の表象や死の危険に充ち満ちています。

 

賢治的要素はそれだけではありません。

物語は冒頭から風と雨の描写に彩られ、三人称で語られる視点人物は《一郎》、これらは「風の又三郎」を連想させます。

語句や表現においても賢治をおもわせるものが多いのですが、そもそも天沢は最初期の詩作から賢治語彙を意識的あるいは無意識的に多用していました。それらにはたとえば次のようなものがあります。

 

風景。黒びかりする。へんにあかるい。青ざめた。天末線。眼。雲。神の名を記していった。透る。インデヤン。なだれて。気圏の底。鳥。かっきりと。沼ばたけ。mental sketch copied。……etc.

 

初期詩篇にはこうした語句を用いて心象風景を描写する、宮澤賢治の模倣のような散文詩が多くあります。「ガドルフの百合」や「マグノリアの木」を彷彿とさせます。

『朝の河』から『時間錯誤』にかけては身体的、生理的なイメージが前景化し、分娩や堕胎のモチーフが頻出します。そうしたなかに賢治語彙が不意にほうり込まれる点が、なんともおもしろいのです。

なお、このあたりの時期でもっとも重要な語句はおそらく〈透る〉/〈不透明〉です。ガラスや空の透明さと生理的な不透明さが対照されます。後者を象徴するねばつく液体のイメージが『光車よ、まわれ!』にも受け継がれて《水の悪魔》へと形象化されたと解せます。

 

そうした賢治語彙のなかで天沢退二郎がとりわけ頻用したのが、〈へり〉です。

 

水たまりのへり、道路のへり、塀のへり、布地のへり……、『光車よ、まわれ!』にもいろいろな種類のへりが出てきます。

へりは縁であり周縁、つまり境界を指すことばです。へりまではこちら側、へりを越えればあちら側という際どい場が指し示されます。オモテの世界とウラの世界が交錯してせめぎ合う物語にはうってつけのことばでしょう。

 

これも宮澤賢治をおもわせることばですが、天沢の〈へり〉は賢治の文脈とはすでに異なっているようにおもいます。

初期からほぼすべての詩集に現れ、この作品でも毎頁のように出てきます。のみならず《頬のへり》といった独特な用法までがみられます。

こうなると〈へり〉への偏執は天沢退二郎を考えるうえで最重要なポイントなのではないかとおもえてきます。そしてそれは、おそらくは児童文学や幻想文学一般の問題に拡張しうるものでもあるでしょう。

ちなみに宮澤賢治の童話には境界のインデックスとして他に〈象の頭のかたちをした丘〉がありますが、早い時期にこれを指摘したのは天沢退二郎その人でした。

 

『光車よ、まわれ!』は宮澤賢治をサンプリングしつつ模倣に終らないとてもよい作品です。

先日なんとなしに読み返してやはりおもしろいとおもいました。

わたしは散文ではこれが、詩集では『時間錯誤』が好きです。

 

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