このぼんやりと白いもの
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宮澤賢治の童話「銀河鉄道の夜」は、ジョバンニとカムパネルラが天の川に沿って走る鉄道で二人旅をする物語です。
そしてそれは牛乳をめぐる物語でもあります。
その夜のジョバンニの旅は母のために牛乳を取りに行くことからはじまり、その胸に牛乳を抱くことで終ります。
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作品のはじめに置かれた理科の授業の場面では天の川が乳とのアナロジーで説明されます。
乳の流れのようなものとされる銀河が《ほんたうは何か》と問われ、ジョバンニはその答えがわからなくなってしまいます。そしてその日の夜、答えを確かめるかのように天の川を旅することとなります。
同行するカムパネルラは旅のはじまりから死んでいました。死んだことにより銀河鉄道に乗車する切符を得ていたのでした。
この列車にはカムパネルラ同様に死者達が乗り合わせています。鳥捕りや燈台守などといった《そら》の世界の住人もいますが、乗客の多くは他の誰かのために命を落として間もない人びとだとおもわれます。
彼らは天の川の南端が近づくにつれて銘々に、あるいは一斉に下車していきます。
銀河鉄道は《三次空間》と四次空間とを、この世とあの世とを結ぶものとして設定されています。
なお、この世とあの世の行き来の不可能性については、インデアン座のあたりの峡谷のひどい傾斜のために汽車は下流から上流へはのぼることができない、と説明されます。
ふたりが旅をし、そして別れを迎える《そら》の世界は、《不完全な幻想第四次》の空間であるとされます。すなわちそこはまだあの世そのものではありません。
そこは仏教でいうところの〈中有〉に相当するものでしょう。
中有とは、亡くなってから六道のいずれかに生まれ変わるまでの、まだ完全にあの世へと移ってはいない状態のことです。
宮澤賢治はいくつかの作品でこの中有を問題としています。
「銀河鉄道の夜」に先行する童話「ひかりの素足」や詩「オホーツク挽歌」では、前者では中有を死者とともに、後者では中有にある死者を訪ねて旅するという主題がとられています。
他には童話「おきなぐさ」も同系統の作品とみなし得ます。
綿毛となったうずのしゅげが風に吹かれてばらばらに舞い散るとき、側にいたひばりは鉄砲玉のようにまっすぐ空に飛び上がります。天にのぼった魂についていけるだけついていき、別れの歌をみじかく唄います。
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死者が中有にある期間が四十九日であるとされています。
魂と呼ぶべきものが別の世界へと移っていく目安のようなものだそうです。
わたしが飼っていた犬は「銀河鉄道の夜」からとって MILKY という名前でした。
その犬が四十九日を迎えました。ジョバンニのように送ってあげることはかないませんでしたが、ほんとうの天上に至ってくれているとよいと、こころから願います。