ロジカルであってもリリカルであるに違いない:円城塔『烏有此譚』(2009)
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hontoからのDMで円城塔の新しい短篇集が近刊であることを知りました。
さほど熱心な読者でないわたしは雑誌掲載の連載や読切を追っているわけではないため、未読の作品をまとめて読むことができるのはなかなかに愉しみです。
『シャッフル航法』の刊行までまだひと月ほどあるので待機の暇に(円城塔作品のなかでは)比較的さくさくと読める(とおもっている)『烏有此譚』を再読しました。
この中篇は膨大な注によって知られています。
ページの1/3強が脚注にあてられており、初読ではどう読めばよいか困惑すること必定です。
その注は本文への注、注への注、注への注への注……と際限なく階層化されていきます(実際には注への注への注への注への注への注という六層目あたりのところで自重されています)。
本文に寄与しない注が多く、注を付けること自体が目的化されています。たいていのものは馬鹿馬鹿しくもおもしろいです。*1
なお、《作者》と《注者》は別のものとされています。
例にもれず読了までなかなかに疲れました。
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円城塔の作品を読むと、いろいろなことをおもい、ときにはちょっとだけ考えます。
まず文章についておもうことの一つは、それが論文的であるということです。
文体が論文的すなわち表現が堅いという、そういうことではありません。語彙が学術的であるということでもありません。*2
精度を優先した文章であるということです。
書くべき意味内容を能う限り精確に表すことを優先した記述であるとおもいます。語の選択や語順、助詞や読点などに曖昧さが少ない実用的な文章、あるいは合理的、合目的的な文章であるとおもいます。
そのうえさらに《言い条》といったような癖の強い表現を好んで多用したりもするため、一読して小説的な小説ではない、好悪がはっきり分かれるであろう特異な文章になっています。まわりくどく堅いだけではなくてユーモア(=パロディ、ボケ、ナンセンス)が溢れて緩急のある文章なので、わたしにはとても心地がよいです。*3
また一つは、詩的であるということです。
円城塔と言えば難解さでしょう。作中では専門的な知識がさらっと援用されます。数学や物理学などの素養が著しく乏しいために、もしかするとわたしには根幹の作品設定を一割も理解できていないかもしれません。ちんぷんかんぷんです。
そうした専門性に加え、作品全体は寓話的であり細部は比喩的であり、読者への説明が少ないことが特徴です。作品により程度の差こそあれ、読者への負荷が異常なまでに大きく、はじめから〈わかりやすさ〉は視野にない文章であると言えます。アレゴリーとアナロジーとシミリーに充ち満ちた坩堝の様相を呈しています。
「考速」のように、ほとんど散文詩のような印象を受ける作品も少なくありません。かつ、表現のレベルでも詩的な文言が散見します。
僕たちはどこまでがどこまでであり、何故境界はあると感じられるのか。水に落とされた赤インクの境界はどこにあるのか。黒インクに落とされた黒インクの境界はどこにあるのか。誰かが何かに巻き込まれるのを目撃して胸が痛むとき、その人物を自分の器官と考えていけない理由は何なのか。
たとえば『烏有此譚』には上のようなものがあります。
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そもそも詩の言語は精度の高さが身上であるゆえに、論文的であることと詩的であることは必ずしも矛盾しません。
両者はこうして円城塔のテクストの形をとって両立が可能であることを示しています。
もしかすると円城塔の作品は小説であるよりむしろ詩なのかもしれないと、ときおり考えます。
(文章の印象についての話題に終始したので、この作家の一貫したテーマである小説が出力/入力されることを巡るメタフィクションについても整理して書きたいなあとおもっています。そちらはできれば論文として。)
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