理外の理、マジックリアリズムのような:『今昔物語集』
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ラテンアメリカ文学が好きなので月に一冊くらいはそうした本を読みます。
新しい本にも手を伸ばしますが、コルタサルなどをぱらぱらと再読することが多いです。
世にラテンアメリカ文学の愛好者は多く、現実やネット上で頻繁に出会うのですが、意外と日本のマジックリアリズムの話題にはなりません。
たとえば伊井直行や中井紀夫など、とてもおもしろいのに著書の多くが絶版で残念におもいます。
とくに80年代以降に日本でも中南米的なマジックリアリズムを取り入れた作品が多く現れますが、それらのはるかはるか昔から現実のなかの非現実、非現実を織り込んだ現実を描く作品群は存在しています。
その最たるものがおそらく『今昔物語集』です。
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知名度に反して『今昔』はそれほど読まれてはいないようにおもわれます。
高校の授業で触れたけれどもそれ以上の関心を抱くことはなかった、というケースが多いのではないでしょうか。
しかしながらこれらの作品群はかなりおもしろいです。
ラテンアメリカ文学と同じような感覚で読むこともできるので、そうした小説が好きなひとにもしばしばおすすめしています。
『今昔』は平安時代末期に成立したとされる説話集です。
全三十一巻(欠巻あり)から成り、天竺(印度)・震旦(中国)・本朝(日本)の三つのパートに分かれています。
とりわけおもしろく、人気があるのは、本朝の怪異譚が集められた第二十七巻と第三十一巻です。
これらには京の内外で動物や鬼や霊と遭遇し不思議な体験をするといった説話がたくさん採られているのですが、内容も語りも相当にぶっとんでいます。
あり得ないことが起こり、説明が必要なところに説明がない、まるでガルシア=マルケスのようにつっこみどころを放置してさくさくと進行していきます。
鬼をはじめとする異類は人間とはちがった論理で動いているために人間にはけっして理解することができません。しかしそれでいて彼らには彼らの論理が確としてあります。それが証拠に、鬼は人間と約束したことを絶対に違えません。
異類のこうした論理、人間の道理とは異なる道理は、〈理外の理〉と云われます。
『今昔』の登場人物からすると異類の思考や行動は理解しがたいものなわけですが、それと同じように、後代の読者であるわたし達からすると登場人物の思考や行動も十分に理解しがたいものです。*1
登場人物の理外の理に即して行動する異類、わたし達の理外の理に即して行動する登場人物。あたり前のように淡々と進行する語り。
これらによってつっこみどころが倍加し、読者に心地よい混乱をもたらします。
なお、手軽に『今昔』を読むには岩波文庫の本朝部(下)巻がよいとおもいます。
抄録ながら第二十六巻から第三十一巻までが収められており、怪異譚の二巻もこれ一冊に含まれます。
そして巻末に「『今昔物語集』メモ」と題された次のような表が附されている点も嬉しいです。
これをみると、たとえば第二十九巻第二十三話「大江山の事件」が芥川龍之介「藪の中」の元ネタとなっていることがひと目でわかり、参考になります。
いまもむかしも多くの作家がそこから材を取っているように、『今昔』は読む者の想像力を大いに刺激してくれます。
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長い歴史をもつ日本の古典のなかには海外文学に通じるおもしろさをもつものも少なくはありません。
その意味で、池澤夏樹個人編集の『日本文学全集』に斬新な古典の新訳がたくさん採られたのは喜ばしいことだとおもいます。
池澤さん曰く訳者の町田康自身が朗読した『宇治拾遺物語』の講演は爆笑を誘ったとのことでした。装丁もおしゃれですし、ここからまた読者層が拡がっていくことでしょう。
十一月に刊行される円城塔訳の『雨月物語』も非常に待ち遠しいです。
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(このシリーズの『今昔物語』が、書き下ろしの新訳ではなく福永武彦訳であるというところにぐっときます。)
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