平気で生きるということ:正岡子規『仰臥漫録』(1918)
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作家の日記が好きで、ときおり読みたくなります。
宮澤賢治がその類を遺していないのが残念なのですが、近代作家の日記というと正岡子規の『仰臥漫録』と石川啄木の『ROMAZI NIKKI』が双璧ではないでしょうか。
わたしは前者がとくに好きで、何年かおきに手に取って眺めています。
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『仰臥漫録』は病床で綴られた日記です。
明治三十四(一九〇一)年九月、臨終のちょうど一年前からはじめられました。
子規は結核を患い、臥し、没したことが広く知られています。そもそも「子規」という雅号も結核に由来するものです。
「四国猿」「野球[のぼーる]」「漱石」などなど、筆名狂いとも云えるほど多くの筆名を用いた子規は、二十歳過ぎのときにはじめてこの「子規」を名乗るようになりました。
「子規」はすなわち「ホトトギス」の意です。ホトトギスは唄いながら血を吐く、血を吐くまで唄いつづけるとされる鳥です。
この頃に子規は大病を患いはじめて激しく喀血しました。そして肺病と診断されました。
自らの末期を見据えて、血を吐きながらも死ぬまで唄いつづけるという覚悟をこめて、「子規」と名乗るようになりました。
子規は「子規」となってから亡くなるまでの十年強で歴史に名を遺すこととなりましたが、そのうち半分以上、七年余りは病臥生活を強いられていました。
臥した子規の病いは正しくは脊椎カリエスです。
虫歯を英語で Dental Caries などとも云いますが、「カリエス」とはラテン語で「腐る」という意です。
脊椎カリエスは結核菌が骨の組織を侵食してしまう難病であり、骨やその周囲が壊死してしまうので必然的に寝たきりの生活となってしまいます。
現代であれば結核を罹患することはあってもカリエスまで進行することはきわめて稀ながら、抗生物質が普及していない戦前にはそこまで悪化してしまう患者も多かったようです。
大別して胸部と腰部の二つのカリエスがあり、腰部のものが甚だしい痛苦を伴うようです。
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この日記でまず注目すべきは、注目せずとも目が向いてしまうのは、食事です。
明治三十四年九月二日 雨 蒸暑
〔……〕
朝 粥四椀、はぜの佃煮、梅干(砂糖漬け)。
昼 粥四椀、鰹のさしみ一人前、南瓜一皿、佃煮。
夜 奈良茶飯四椀、なまり節(煮て 少し生にても)、茄子一皿。
この頃食い過ぎて食後いつも吐きかえす。
二時過牛乳一合(ココア交て)。
煎餅菓子パンなど十個ばかり。
昼飯後梨二つ。
夕飯後梨一つ。
服薬はクレオソート昼飯晩飯後各三粒(二号カフセル)。
水薬、健胃剤。
今日夕方大食のためにや、例の下腹痛くてたまらず。しばらくにして屁出で筋ゆるむ。〔……〕
寝たきりとなった子規は尋常ではない量の食事を摂ります。
《この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす》と云ってしまうほどの量です。そしてそれにより腹痛を起こします。
次の二日間の記述には、とくに驚かされます。
九月十四日 曇
午前二時頃目さめ腹いたし。家人を呼び起して便通あり。腹痛いよいよはげしく、苦痛堪へがたし。この間下痢水射三度ばかりあり。絶叫号泣。
隣家の行山医を頼まんと行きしに旅行中の由。電話を借りて宮本医を呼ぶ。
吐あり。
夜明けやや静まる。柳医来る。散薬と水薬とのむ。
疲労烈し。〔……〕
九月十五日
昨夜疲れて善く眠る。〔……〕
夕暮れ前やや苦し。喰過ぎのためか。
さらに前日、十三日の食事をみるに過食が原因での腹痛とおもわれます。あまりの苦痛に《絶叫号泣》し、深夜に電話で医師を呼んでいます。
けれどもその大騒動の翌日、信じがたいことにまた食べ過ぎてしまうのです。嘘でしょ、とつっこみたくなってしまいます。
数日後にも興味深い記事があります。
九月十八日 晴 寒し
朝 体温三十五度四分。
粥三椀、佃煮、なら漬。
便通及び繃帯取換。
昼 飯二椀、粥二椀、かじきのさしみ、南瓜、ならづけ、梨一つ。
便通。
牛乳(ココア入り)、ねじパン形菓子パン半分ほど食ふ。堅くてうまからず。
よってやけ糞になって羊羹菓子パン塩煎餅などくひ渋茶を呑む。あと苦し。
夕 粥一椀余、煮松魚[にがつお](少しくう)。佃煮、ならづけ、梅干、煮茄子、葡萄。
夜便通。〔……〕
おやつのパンが美味しくなかったからムシャクシャしてありったけのお菓子を食べる、オナカが苦しい、という隙のない展開です。
ところでこの頃はちょうど菓子パンの黎明期であり、前年にはあんパンの木村屋が「ジャミパン」を、三年後には新宿中村屋が「クリームパン」を発売しています。
(続)
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