〈棄想天蓋〉:文芸とポップカルチャーを中心に

トマトです。学位は品種(文学)です。無名でも有名でもないちょうどよい塩梅の文芸作品をとりあげて雑感を綴ることが多いです。レコードが好きです。

虚構また虚構、あるいは終りのない虚構:M・ブルガーコフ『劇場』(1966)

ブルガーコフの『劇場』を読みました。

白水社から出されていたシリーズ「20世紀のロシア小説」(全八冊)の一つであり、数年前に大学図書館の除籍図書を揃いで入手して以来、本棚の隅に積んだまま忘れていたものでした。

 

門外漢なので批評以外のロシア文学にはまるで馴染みがなく、ブルガーコフ岩波文庫の『悪魔物語・運命の卵』しか読んだことがありませんでした。そしてその一冊から、ブルガーコフH・G・ウェルズシュルレアリスムっぽくしたような作家なのだろうと、ふんわりとした印象を抱いていました。

それがこの長篇を読んで大きく変わりました。

 

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語りの彼方にあるオモチロサへ:森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』(2006)

専門が近代だということもあって最近の小説はあまり読みません。

SFが好きなのでそうしたものを趣味的に読むか、必要に迫られて勉強のために読むかくらいです。

後者の一つとして数年前に森見登美彦の作品をまとめて読みました。

一作目の『太陽の塔』で好きになってしまいました。

 

森見登美彦の作品は語りの構造がおもしろいとおもいます。

独特な語りそのもの、すなわち文体もさることながら、語り手がその物語を何のために語っている/書いているのかに意識的な作家です。

そして森見の作品の多くは、そうした語りの目的について考えることで、作中ではっきりと文章化されていない情報を引き出すことが可能であるようにおもわれます。

 

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ロジカルであってもリリカルであるに違いない:円城塔『烏有此譚』(2009)

hontoからのDMで円城塔の新しい短篇集が近刊であることを知りました。

さほど熱心な読者でないわたしは雑誌掲載の連載や読切を追っているわけではないため、未読の作品をまとめて読むことができるのはなかなかに愉しみです。

 

『シャッフル航法』の刊行までまだひと月ほどあるので待機の暇に(円城塔作品のなかでは)比較的さくさくと読める(とおもっている)『烏有此譚』を再読しました。

 

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すこしふしぎ:中井紀夫「見果てぬ風」(1987)

おそらく一年ほど前から、書店で筒井康隆『旅のラゴス』を頻りと目にするように感じていました。

壁面でピックアップされていたり平積みにされていたり、なぜか目立つ場所に置かれていることが多く、ときにはポップまで付されており、何事であろうか、改版でもしたのかと訝しんでいました。

 

そんななか、すこし前に、筒井が出演したBSの番組でちょうどこの現象が話題となりました。

ラゴス』をジブリが映画化するという噂が立ったようだ、など二三の理由を挙げていましたが、どうやら著者本人にもはっきりとは分かっていない様子でした。

(脇道に逸れますが、仮にアニメ化が実現するとしたらジブリ本家ではなく新海誠あたりが『星を追う子ども』みたようなテイストでやりそうだなあ、なんておもったりしました。)

 

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「われに五月を」

もとから五月が好きでした。

初夏に向かいみどりが芽吹く気候にこどもの頃はわくわくとしました。四月の、雪がすべて融けきってしまうそのすこし前も好きでしたが、日ざしの心地よさを感じはじめる五月がとても好きでした。

 

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境界としての〈へり〉:天沢退二郎『光車よ、まわれ!』(1973)

昨年であったか一昨年であったか、すこし前のことになりますが『電脳コイル』を視聴しました。

2007年にNHKで放送され、日本SF大賞を取ったことでも話題となったアニメです。評判のよさは知りつつもタイミングを逃してしまったことと絵柄の印象で未見でいました。しかしながら観てびっくり、とてもおもしろかったです。イヌを飼っているので感情移入してしまう展開もありました。

 

このアニメを視聴してすぐにおもったことが二つありました。一つがリアルタイムで追っかけておけばよかったぞということ、一つが天沢退二郎『光車よ、まわれ!』っぽいぞということでした。

ネットで検索したところ制作陣もこの作品からの影響を公言しているらしく、そうした指摘はすでにたくさんあるようです。

 

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