〈棄想天蓋〉:文芸とポップカルチャーを中心に

トマトです。学位は品種(文学)です。無名でも有名でもないちょうどよい塩梅の文芸作品をとりあげて雑感を綴ることが多いです。レコードが好きです。

語りの彼方にあるオモチロサへ:森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』(2006)

専門が近代だということもあって最近の小説はあまり読みません。

SFが好きなのでそうしたものを趣味的に読むか、必要に迫られて勉強のために読むかくらいです。

後者の一つとして数年前に森見登美彦の作品をまとめて読みました。

一作目の『太陽の塔』で好きになってしまいました。

 

森見登美彦の作品は語りの構造がおもしろいとおもいます。

独特な語りそのもの、すなわち文体もさることながら、語り手がその物語を何のために語っている/書いているのかに意識的な作家です。

そして森見の作品の多くは、そうした語りの目的について考えることで、作中ではっきりと文章化されていない情報を引き出すことが可能であるようにおもわれます。

 

森見登美彦と言えばやり場のない鬱屈とした想いを抱える京都の腐れ大学生を登場人物とした一連の作品群がとくに支持を集めており、そのはじめの『太陽の塔』と三つ目の『四畳半神話大系』ではテクストが語り手の〈手記〉であると明記されています。

それらもとても興味深いのですが、以下ではその間にある『夜は短し歩けよ乙女』について考えてみたいとおもいます。

 

『夜は短し』は恋の物語です。

《先輩》と《黒髪の乙女》が出会い、紆余曲折と艱難辛苦の果てにお付き合いをすることとなるまでが綴られます。そして物語はふたりがそれぞれに《私》目線のエピソードを語ることでクロスカッティングしながら進行していきます。

 

さて、では、ふたりはどうして物語っているのでしょうか。

 

はじめの頁から《読者諸賢》《記録》などとあり、それが事後的に振り返って書かれたものであるということがわかります。ここで重要な点は二つ、それが文章であるということと、語りの時点でふたりはすでに付き合っているということです。

つまりこのテクストは、お付き合いがはじまったのち、そこに至る経緯が双方向から《記録》されたものであるということです

回想であって、《先輩》にとっては過去進行形の片恋なのです。

 

ところで、文章であるならばここで想定されている《読者》とはいったい誰なのでしょうか。

 

それを考えるためにふたりのそれぞれの語りに目を向けます。

《先輩》は《読者諸賢、ごきげんよう》といった言い回しで過剰に《読者》に語りかけることにより自らの体験談を戯画化しています。あたかも作品の外部に居るわたし達を意識しているかのようです。不特定多数の小説読者を想定してのサービスのようであり、そうであればラノベやマンガ、アニメなどでも多用される手法だと言えます。

しかしながら対する《黒髪の乙女》にそんな素振りはなく、基本的には淡々とじぶんのパートを書き継いでおり、ここに明確な温度差があります。読者などはどこ吹く風です。

 

そうしたなかで大きなポイントとなるのが次の箇所です。

 

 彼女は文庫本を手にして無闇に熱心に読んでいる。〔……〕

 そんなやつを読む閑があったら、むしろ私を読みたまえ。なかなかオモシロイことが色々書いてあるよ。

 

       ○

 

 憚りながら解説させて頂きますと、その時私が夢中で読んでいたのは、ジェラルド・ダレル『鳥とけものと親類たち』でした。(文庫版82-83頁)

 

《先輩》パートのコメントを受けて《黒髪の乙女》パートが書き出されています。

そしてつづく《先輩》パートでは、さらにその《黒髪の乙女》パートを受けて《先輩》の語りがはじまっています。文章を介して会話が成立しているのです。《先輩》の文章を《黒髪の乙女》が読み、《黒髪の乙女》の文章を《先輩》が読み、互いの文章内容に言及し合う。おゝ、コール&レスポンス。

 

《読者諸賢》という言葉に引きずられてしまいそうになりますが、よく読むとこのように《黒髪の乙女》こそが《先輩》パートの主要な読者であるということがみえてきます。《黒髪の乙女》パートの《先輩》も然り。互いが互いに読まれることを前提に書いています。

してみると《先輩》パートの《読者諸賢》なんかの語り口はお道化や照れ隠しであると捉えることもできるでしょう。

 

さらには次のような箇所もあります。

 

 事務局長に手を上げて、私は慌てて彼女の後を追った。

「いったいなぜ、あんなものを背負っているのであろうか?」と思った。

 

       ○

 

 その御質問にお答えします。

 私が背負っていたのは、いかにも緋鯉のぬいぐるみでした。グラウンドにあった射的屋「君のハートを狙い打ち!」で見事に真ん中を撃って、獲得したのです。(同前164頁)

 

事後的な回想ということは疑問を綴っている時点でふたりは付き合っている訳なので、そんなことは直接尋ねればよいではないか、とおもうのですが、まさしく直接尋ねていたのですね。そしてきちんと答えてくれています。

 

ふたたびはじめの問いに戻ります。

このテクストはいったい何であるのか。ふたりはどうして物語っているのか。

 

引用したような語りの応酬、クロスカッティングを踏まえると、それを〈交換日記〉(に類するもの)と解釈することが可能です。

明確に日記体小説として書かれたものではないのでもちろん現実の交換日記とは異なる点もありますが、枠組みとしては交換日記とみなして問題ないはずです。

はじめに確認したように、このテクストは付き合うに至るまでのふたりの足跡がそれぞれの視点から綴られたものです。

であるならばその目的は、タイムリーには知り得なかった互いの行動の空隙を補完しあうことにあるのでしょう。付き合いはじめの若人がそれぞれの「あのとき」や「あのとき」のことをしたため合ってキャッキャウフフとしている、なんとまあ初々しくもカワイラチイ。爆ぜるべきです。

 

成就した恋のその後は語らない、というのが森見登美彦一流のポリシーだったりするのですが、この作品では〈交換日記〉という解釈を導入することによってその後のふたりの睦まじさまでを間接的に読むことができます

 

語り手の位置をはじめとした語りの構造について考えることで、語られていない背景の情報を引き出すことができる場合があります。その分だけ作品の奥行き、あるいはおもしろさは拡がることとなります。

森見登美彦の作品はそうした読みの練習に最適であるようにおもわれます。

なむなむ。

 

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