「荒涼たる帰宅」
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犬の手術があった翌日に講義で高村光太郎の『智恵子抄』を扱いました。
この詩集の全篇を通して、妻を看取るそのときまで夫たる「私」が傍観者でしかいられなかったという側面を焦点化し、介護や看護に携わる余地の少ないシチュエーションについて考えるという内容でした。
もともと決めていたものなので淡々と消化するようにしたけれど、この内容にこの時機が重なるとはおもいもよりませんでした。資料に引用した詩のいくつかは読まずに省略しました。
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何をしてやることもできぬまま、手術から数日ののちに望まぬかたちで帰宅をすることとなりました。それから丸一日だけ側にいて、火葬をし、拾骨をし、ふたたび家へと帰ってきました。
その際に一つ不思議なことがありました。
小さな骨壺を抱えていつもの部屋に戻り、まず遺影と花を並べて仏壇のようなスペースを整えました。よき場所に骨壺を安置し、手を合わせ、ひと段落がついてから着替えにかかろうとしました。
そのときシャツの裾のあたりから、ぽとりと、何かが床に落ちたことに気がつきました。
確認するために屈んでとても驚いたのですが、それは湾曲して先端が尖っている、しっかりとした指先の骨でした。
どこに、どのようなかたちで引っかかっていたものか、見当がつきません。
小さな欠片まで一つ一つ丁寧に拾って骨壺に収めたので、1cmに満たないとはいえけっして小さくはないそれを拾い損じるはずがありません。
仮に落としたのだとしてもそれが腰のあたりに引っかかりつづけていたということは解しがたいです。
火葬場から家へと直接に帰ったわけではなく、すこし寄り道もしました。立ったり座ったり、あるいは歩いたりとしたのに、生地に刺さっていたわけもないそれはシャツについたままでいました。そして手を合わせて立ち上がり、ひと段落がついたというまさにそのタイミングで落ちてきました。
やはり不思議におもいます。
最期に一緒について来てくれたと好意的に解釈したい気持ちがあります。
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死んでしまった前夜以来、なぜだか犬の夢をみていません。
側にいてやらなかったことを怒っているのかもしれないとおもう気持ちもあります。
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