「みゝずのたはこと」
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あまり哀しんでいると犬も安らかに眠っていられないかもしれないので、笑っている写真などをみてたのしかったことを憶い出しています。よい笑顔です。
動画を撮っておけばよかったです。写真はたくさんあるけれど、声を聴きたくなってきます。
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この十年間、夜はたいてい犬と一緒にいました。
しかしながら最期の七日間は手術を受ける前夜のみ、それもわずかに三時間のみしか一緒にいることができませんでした。そこからは会いたくても会うことができず、側にいたくても側にいることができず、ついには看取ることなく死んでしまいました。
ほんの一週間前にはこのような結末になるとはゆめゆめ考えもしませんでした。
もうすこしだけ、こころの準備をする時間があるとよかったです。そして別れを意識したうえでもうすこしだけ一緒の時間を過ごすことができるとよかったです。
犬の病気の進行はほんとうに早いものだと知りました。
犬がいた場所に花と遺影と骨壺があり犬はいないという現在に、すこしは慣れてきたものの、やはりまだ違和感はぬぐえません。ふとしたときに習慣でいつものポイントに目をやってしまいます。なんとなしに名前を呼んでみたりします。
明治大正期の小説家である徳冨蘆花は明治天皇の崩御を受けてエッセイで次のように綴っています。
鬱陶しく、物悲しい日。
新聞は皆黒縁だ。ふと新聞の一面に「睦仁」の二字を見つけた。下に「先帝御手跡」とある。孝明天皇の御筆かと思ふたのは一瞬時、陛下は已に先帝とならせられたのであった。新帝陛下の御践祚があった。明治といふ年号は、昨日限り「大正」と改められる、と云ふ事である。
陛下が崩御になれば年号も更る。其れを知らぬではないが、余は明治と云ふ年号は永久につゞくものであるかの様に感じて居た。余は明治元年十月の生れである。即ち明治天皇陛下が即位式を挙げ玉ふた年、初めて京都から東京に行幸あった其月東京を西南に距る三百里、薩摩に近い肥後葦北の水俣と云ふ村に生れたのである。余は明治の齢を吾齢と思ひ馴れ、明治と同年だと誇りもし、恥ぢもして居た。
陛下の崩御は明治史の巻を閉ぢた。明治が大正となって、余は吾生涯の中断されたかの様に感じた。明治天皇が余の半生を持って往っておしまひになったかの様に感じた。
物哀しい日。田圃向ふに飴屋が吹く笛の一声長く響いて、腸にしみ入る様だ。
未来が永遠だとはおもっていませんでしたが、こんなに早くに壊れてしまうともおもっていませんでした。犬が死んでしまったことでじぶんの半身が欠けたように感じました。
そしてふとこの文章を思い出しました。
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blogの題に反して数回にわたり棄てることはできない想いを書き残しました。
書いたことによって、またそれを読んだことによって、ある程度の整理をすることができたようにおもわれます。
自己療養へのささやかな試みは一旦ここまでにして、そろそろふたたび日常に帰ることができるようにおもいます。
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